旅への誘(いざな)い 詩集 JET STREAM
『 心残り 』
さる年のヨーロッパに
置いてきた夏があると思わないか。
例えば南ドイツの古都で、雨。
入口に可憐な鈴をつけたカフェで
紅茶のカップを手のひらに包み、
指先を暖めた夏もあった。
少し曇った窓ガラスごしに
黒々と濡れた石畳が見え、
塗り替えて間もない
砂糖菓子色の家並みが、
見捨てられた絵本のように
青ざめていた。
こんなことがあってはならない、
と思いながらも
カフェの客は、私一人で、
次の街へのバスを待つ間の時間、
何をする気もなく坐っていたのだった。
白い前掛けが目にしみる女主人が、
降り込められた旅人を、
気の毒そうにレジの傍で見ていた。
あの時、
ババリア(バイエルン)の空の下の、
晴れやかな夏を一つ、
私はカフェの椅子に残してきたと
思っているのだ。






